野田俊作の補正項
             


三輪清浄

2008年01月09日(水)


 ほんとうの意味で利他的な行動はありえないというのがアドラー心理学の公式見解だ。個人の目標追求は結局のところ私利私欲だから、そこから出てくるいかなる行動も、本人がどんなに利他的だと思い、周囲からも利他的だと評価されていても、実際の動機は私利私欲だということになる。結果が共同体に対して貢献的だからといって、動機まできれいになるわけではない。人間の内側は、掘っても掘っても泥ばかりというわけだ。さすが深層心理学!

 もっとも、アドラー自身はこの結論に不満だったようで、1930年代には《完全性追求 Streben nach Vollkommenheit》という奇妙な概念を提唱して、人間は「神のように」なれると言った。この考え方は西洋ではきわめて不評で、ドイツ人はもちろん、アメリカ人も、1930年代のアドラーを無視して話をしてきた。ユダヤ教もキリスト教も、神と人間の断絶を絶対的なものだと認めているので、このような「神を畏れぬ」概念は、そうやすやすとは受け入れられない。

 しかし、最近、風向きが変わってきて、人間の純化というか変容というかについて話をする人が増えてきた。たとえば、ICASSI(ドライカース・サマーセミナー)へ行ったとき、ビル・リンデンはさかんにメモを渡してきて、そのあたりのことを尋ねる。それでこちらもメモを返して、仏教の考え方を説明した。仏教徒やヒンズー教徒にとっては、人間が純化されて神になるというのは、つまり「悟りを開いて仏になる」というのは、常識的なことだから、かえって細かく説明を求められると困る。ともあれ、彼であれ他のスピリチュアリストであれ、アドラーの1930年代の考え方にもう一度とりくんでみようとしているように思われる。そういう論文も見かけるようになった。

 デカルト的近代理性(つまり1920年代のアドラー)は、倫理についての議論を不可能にしてしまった。近代のはじめのころは、キリスト教的な応報説、つまり死後に神の審判があって天国に行くか地獄に行くかを決められるという説が生きていて、神罰を怖れて人々は倫理的にふるまっていたのだが、やがて神が死んでしまうと、法的な処罰以外に怖れるものはなにもなくなった。神の目はごまかせないが、法の目はごまかせるので、「みつかりさえしなえければ、なにをしてもいい」という世の中になってしまった。

 そもそも、「神罰を怖れて善行をする」というのでさえ、アドラー心理学の立場からいうと、臆病で勇気のない生き方で、あまりお勧めでない。もちろん法の処罰を怖れて善行をするのもお勧めではない。かといって、神の賞なり社会の賞なりを求めて生きるのも、内在的な倫理とは言い難くて、お勧めでない。私がマザー・テレサを嫌いなのは、彼女は神の賞を求めていたからだ。さらに、自分で自分を誉めるのでさえ、自己執着 (Ichgebundenheit) であって、アドラー心理学から見ると共同体感覚的でない。罰を避けても賞を求めても、私利私欲であって、真の倫理的行動ではない。

 「じゃあ、どうすればいいのさ」ということに当然なるわけで、だからアドラーは、ユダヤの古式にしたがって「完全性追求」というものを持ち出したわけだが、これはちょっとついていけない。だから、現代のアドレリアンたちは、ユダヤ的文脈を離れて語り直したいわけだ。しかし、こんなの、仏教では常識で、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)の布施」っていって、「与えた人、与えられた人、与えれらた物」の3つを忘れて奉仕すればいいということなんですよ。そのためには、「私も相手も物も、縁起によって仮に存在しているだけの無常な存在であり、実際にはすべてが空なのだ」と観じればいいわけだ。つまり、「一切は空だ」という認識が倫理の根拠になる。これは面白いロジックですよ。そこを、ビル・リンデンに説明したが、あまりよく理解してもらえなかった。西洋人には難しいかもね。

 これについて、大乗仏教と上座仏教の間で、大昔に論争があって、それがなかなか面白いのだが、また来週の水曜に書こうかな。水曜はお医者さんの日で、書くことがなくて困るものだから。もっとも、別のテーマがあれば、そちらを書くかもしれないが。