野田俊作の補正項 |
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本日の読書 |
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戦争を嫌ふものは、「近代生活」を停止すべきである。「大都会」を停止すべきである。その二つを愛好するものと、それを人生の目的とするものは、「近代戦争」の覚悟と用意をすべきである。(保田與重郎『祖国正論T』新学社,p.236)
という保田與重郎の言葉を踏まえた話だと気がついた。保田與重郎は戦後文壇では「海中深く廃棄された放射性物質のごとく語られている」と大岡信が書いているのだそうだ。でもね、掘り出してしまえば、今でも立派に放射性物質だ。だからわれわれは自分たちの力、自分たちの手で、大は保田とか、浅野とかいう参謀本部お抱えの公娼を始め、そこらで笑を売っている雑魚どもを捕え、それぞれ正しく裁き、しかして或るものは他の分野におけるミリタリストや国民の敵たちと一緒に、宮城前の松の木の一本々々に吊し柿のように吊してやる。(橋川文三『日本浪漫派批判序説』講談社文芸文庫,p.10)
などと書いている。まだこれは何か書いたからいい方で、文壇からは完全に黙殺された。それは、保田が書いていることが、日本文学のいちばん中核部にかかわることであることを、みんなが知っていたからだと思う。近づくと危険なので、そこからできるだけ距離をとって暮らすことにした。それが、大岡信が「放射性物質」というゆえんだ。日本の農業生産を組成している技術は勿論ですが、その古俗慣習、信仰、寄合の制といつた一切のものを、努めて保存することを考へなければいけません。今日では、さういふもの一切を、反進歩的だと云つたり、或ひは封建的といふ言葉で葬らうとしてゐます。(中略)封建的といはれていゐるものの中に、どんな道義に即したものがあるか、これは彼らにはわからぬのです。だから彼らの指図をうける必要はありません。彼らは「近代」を無上と信じ、それ以外の文明を知らないのです。だから「近代」といふ体系の中に存在せぬものを、理解し得ずに放棄するのです。(中略)古俗慣習は、何が正義で、何が不正か、又何が真理であって何が迷信かは、ことに当って、且つ因縁をさぐらねば、どこから正しく、どこから不正になつたか、といふこともわかりません。我々は一応保存することに努めるべきです。(保田與重郎『絶対平和論』新学社,pp.213-214)
皇室も、「古俗慣習」の延長線上にあるわけで、だから伝えられたままに保存しなければならないし、日本国も、「寄合の制」の彼方にあるもので、だから保存しなければならない。保田がいうところの「情勢論」を一切排除して、原理に溯って考えれば、これはきわめて明解な議論だ。しかし、ひとたび情勢論を考えはじめると、とんでもない妄説だということになってしまう。現にもし我々が、侵略軍の軍隊を迎へたやうな場合、反抗しない、共力しない、誘惑されない、といふ形を守るには、戦車のまへに横臥して、なすにまかせるといふ、大勇猛心を振ふ位の夢のやうな決意が必要なのです。(同上書,p.47)
戦って死ぬのと、戦わずして死ぬのと、どれだけの違いがあるのだろう。戦って生きのびるという選択肢がないことは、大東亜戦争でわかった。戦っても、かならず負けて死ぬ。死ぬのだから、戦って死ぬにせよ、戦わずに死ぬにせよ、美しく死のう。彼はただそう言っている。この点では戦前も戦後も完全に一貫している。(護憲論者のために老婆心で言っておくが、保田は日本国憲法が嫌いだ。特に第9条が嫌いだ)。