野田俊作の補正項
             


慣習と伝統

2010年01月11日(月)


本日の読書
 大阪市内で講演会をした。90名以上の方が来てくださった。新規顧客の開発を目標にして、宣伝法を工夫したので、半分くらいが初めての方だと思う。若いお母さま方が多くて、子どもさんがまだ小さいと思うので、その時期からアドラー心理学にもとづく子育てをすると、とても楽だろうなと思う。こちらとしても、ながらくご愛顧いただけそうだしね。

 自然法の話もそろそろ終りにしようかと思っているのだが、そもそもなぜ自然法の話になったのかというと、日本国憲法が自然法思想にもとづいていることからだ。ここ数日の間に証明(?)したように、自然法思想は、普遍的な理性という根拠のない神話の上に築かれている。理性というものは確かにあると私も思うけれど、それは、聖書自身も認めるように、言葉(パロール)でもって築かれている。だから、言語(ラング)が違うと理性も違う。つまり、日本人の理性とアメリカ人の理性と中国人の理性は違うのだ。だから、日本国憲法に書かれているさまざまのことがらも、けっして普遍的な徳目ではなくて、アメリカ人が徳目だと思い込んでいるものであるにすぎない。人権はあるかもしれないが、「侵すことのできない永久の権利」としての人権などは無いのだ。それはアメリカ人の妄想だ。実際には、慣習と法によって保証された市民権があるだけだ。

 もし、普遍的な理性を否定してしまうなら、なにが法の根拠になるのだろうか。私は極端論者で、「根拠なんか、究極的には無い」と思っている。すべては「かのように」なのだ。では、どのようにしてある法が良い法であるのか悪い法であるのかを確かめるのかというと、究極的には、やってみて結果を見るしかない。しかし、そうむやみやたらに実験してみるわけにはいかないので、過去の実績を振り返って、うまくいった法は良い法、うまくいかなかった法は悪い法だと考えるのがもっとも実際的な判別法だということになる。つまり、慣習や伝統を重んじるしかないと思う。自然法論は理性信仰にもとづいているから、頭(=理性)で考えてうまくいきそうなら良い法だと考える傾向があるが、なにしろ国の運命がかかっているわけだから、そんなに簡単に言い切っていいものかどうか、理性信仰のない私などは不安になる。これまでの体験をもとにして話をした方が安全だと思う。

 慣習や伝統を重んじるので、たとえばやったことがない共和制よりも、これまでにうまくやってこれた天皇制がいいと私は思うのだけれど、自然法論者たちは、「天皇制は政府や軍に利用されて全体主義や軍国主義になったではないか。だから、実験の結果、よくなかったのだ」と言う。ちょっと待ってくださいね。西部邁『昔、言葉は思想であった』(時事通信社)に、慣習と伝統の違いについて、次のような記述がある。

 歴史によって習得させられ伝承され運搬されてきたものの「実体 substace」が「慣習 custom」であり、その実体にうちに内包されている集団的な精神の「形式 form」が「伝統 tradition」である、ということです。たとえば、儀式で着用する紋服は慣習に当たり、その衣服によって表象されている家系への崇敬の念の在り方、それが伝統だというふうに解釈したらどうでしょう。

 (中略)なぜそうした区分が必要かというと、慣習には「良習と悪習」とは混ざりあっているとみざるをえないからです。たとえば男女の関係論でいうと、両者の役割分担の慣習は良習といえましょうが、男尊女卑の慣習は悪習としか思われません。(p.76-77)

 慣習としての天皇制には、たしかに良習と悪習とが混ざりあっている。二・二六事件などの軍事クーデターや天皇統帥権問題では、悪習の側が機能した。しかし、たとえば大東亜戦争の敗戦処理については、良習の側が機能した。自然法論者は、これを区別せずに、一概に天皇制は悪習であると決めつけ、廃止すべきだという。形式と内容とは不可分のものであるから、慣習としての天皇制を廃止したとき、伝統としての天皇制も自動的になくなる。それでは、たいへん困ったことになると思う。

 伝統としての天皇制とはなんであるのか。それは、国内のいかなる権力も、天皇を権威として認めてきたということだろう。権力と権威の分離によって、国家の統一がどんな時代にも保たれてきた。もし天皇制を廃止すると、権力と権力が直接にぶつかり合うことになって、国家の統一が保たれる保証がなくなる。だから、伝統としての天皇制は維持すべきだ。慣習としての天皇のあり方は、時代によってさまざまだった。たとえば江戸時代の天皇は、お茶かお花の家元のような存在で、政治的にはまったく無能力だった。それでも、征夷大将軍を任命したのは天皇であって、徳川家は天皇の権威によって権力を持つことができた。明治時代の天皇は、江戸時代の天皇よりはよほど政治権力に近かった。国民国家建設のためには、国民ひとりひとりが直接に天皇を権威として認めるような制度が必要だったのだ。しかし、それが悪用されることがあった。しかも伝統としての天皇制は必要だ。だから、江戸時代の天皇と明治時代の天皇の間のどこかに、慣習としての天皇の位置を決めればいい。

 伝統としての天皇制は廃止すべきでないと思う。そのためには、慣習としての天皇制を残さなければならない。絶対的君主としての天皇は、よほどとんでもない狂信的右翼以外には望んでいない。保守派が望んでいるのは、おおむね、1)象徴ではなく国家元首であること、2)国事行為のみを行い国政に関する権能を有しない、ということだろう。第2点は現憲法第4条にそのまま書かれているので、第1条だけ改正して、「第1条 天皇は日本国の元首である」にしてくれれば、それでいい。実際の政治的な権能がないのだから、危険なことはおこらないはずだ。つまり、慣習としての天皇制にすこし手を加えることで、伝統としての天皇制をより建設的に機能させることができる。

 なぜ天皇が象徴でなくて国家元首でなければならないかだが、それは第9条の改正と関係がある。正式に国軍をもったとき、誰かが宣戦布告をおこなわなければならない。以前にも書いたことがあるが、それは天皇の名前でおこなうほかはないと思う。つまり、明治憲法の「第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を復活する必要がある。これは、「主権者としての国民」という、いかにも自然法的な規定をやめろ、ということだ。これについては、また書くことがあるかもしれない。

 先日の西宮えびす神社の写真をもう一枚掲載しておく。ものすごい人出で、4人の神官が通行する人をお払いしてくれた。腕が疲れて大変だと思っていたら、交代要員がいて、ときどき交代していた。