物の怪の時代
2010年02月25日(木)
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本日の読書 |
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西部邁氏が雑誌『表現者』29号の中で、次のように言っておられる。
ハンス・ケルゼンの説は、いろんなところでまだ影を落としていて、世界的平均の評価から言えば、頭が半分おかしいのではないかというのが定説だと思いますが、それは日本では知られていない。ハンス・ケルゼンの法学のミソは、純粋法学が成り立つということです。つまり抽象的な価値・規範の原則から、演繹的に法律の体系が全部ロジカルに演繹されるとみなされている。(p.128)
アドラーも、基本前提という無前提の公理系からすべての理論を演繹的に導き出す点で、ケルゼンにきわめて似ている。ただ、アドラーは、自分の理論の適用範囲を「臨床における援助」に限定したので、「頭が半分おかしい」といわれなくて済んでいる。すなわち、人間の行動なり精神活動なりを何もかもすべて説明しつくそうとしたわけではなくて、臨床という場で、しかも援助という活動に限って話をしたので、そう無茶なことにならなくて済んでいる。
話が見えにくいかもしれないので、実例をあげよう。私は自分でウドン出汁を作るときには、鰹昆布出汁に鶏ガラスープの素を隠し味に入れるが、野菜の煮つけを作るときには鰹昆布出汁に水飴を入れる。ウドンの場合は水飴を入れないし、野菜の煮つけの場合に鶏ガラスープの素を入れない。これはどうしてか? …こんなことはアドラー心理学では説明できない。(行動主義心理学だと簡単に説明できるが)。アドラー心理学で説明できなくても、別に困らない。それはそれでいいのだ。
ところが、家族が「ウドン出汁に鶏ガラスープを入れるのはやめてよ」と言ったとする。私は、「だって、その方がおいしいじゃないか」と言ったとする。そうしてトラブルになって、困ってアドラー心理学のカウンセラーのところに相談に行くと、出汁の作り方ではなくて、家族コミュニケーションに着目して分析し解きほぐしてくれる。そこはアドラー心理学の領域なのだ。つまり、食行動とか性行動とかいうような動物から伝承した行動はアドラー心理学の守備範囲外で、言語コミュニケーションという人間的な行動だけが守備範囲内なのだ。(実は、まだもうちょっと限定がつく)。そこでは、無前提の仮説から演繹的に作られた理論体系でもって、まったく問題なく仕事ができている。しかし、それを動物的な行動にまで及ぼそうとすると、「頭がおかしい」ことになってしまう。
法学はそう優雅なことを言っておれない。国家の行動や精神活動のすべてを説明しなければならないと、すくなくとも近代主義法学は考えている。それで、慣習法主義者の西部氏に、ケルゼンは「頭が半分おかしい」と言われてしまうわけだ。ケルゼンの頭がおかしいかどうかはともかくとして、近代主義法学の頭がおかしいことは私も認める。
西部氏は、民主党の小沢一郎氏が、中国のなんとかいう小役人をむりやり天皇陛下に会わせた問題にちなんで、ケルゼンを引き合いに出している。外国の要人が天皇陛下と会う場合には、30日ルールといって、すくなくとも30日以前に会見の申し込みをしなければならないことになっているのだそうだ。これは法律ということではなくて、宮内庁の内規みたいなものであるようだが、もちろん政府にも外務省にも通知してある。小沢氏は、それを知っていながら、28日前だかに申し込みをして、いやがる宮内庁を、「固いことを申さずともよいではないか、うっふっふ」と、時代劇の悪代官そのままに押し切ったのだそうだ。これも問題だが、西部氏がカチンと来ているのは、その後の記者会見の小沢氏のものの言い方だ。
天皇の国事行為はすべて内閣の助言と承認で行なわれる。それが日本国憲法の理念であり、本旨。なんとかいう宮内庁の役人が、どうだこうだ、どうだこうだ言ったそうだけど、まったくもう日本国憲法、民主主義を理解していない人間の発言としか、私には思えない。(山際澄夫「天皇まで利用する小沢一郎の媚中」『正論』2010年2月号,p.80 から引用)
西部氏は、これにたいして、次のように批判される。
小沢氏は憲法の条文だけを読む。他のものを読めば不純なものが混じっているのだという。恐ろしい近代主義思想と連関している。(中略)天皇は基本的には日本の歴史に基づく、伝統の精神に根差す、具体的に言えば慣習法に根拠を置く存在です。(中略)皇室を支えるのは基本的には歴史、慣習であることを度外視して、30日ルールなんか憲法にも法律にも書いていないではないかと反撃する。小沢はそういう意味で天皇のことを分かっていない。(『表現者』29号,p,128)
西部氏の言うのは、私が「食行動や性行動は、アドラー心理学の守備範囲外で、動物からの伝承にまかせておけばよい」と言うのと同じ意味で、「天皇は、ケルゼン法学の守備範囲外で、国家や民族の伝統や慣習にまかせておけばよい」ということだ。天皇陛下をウドン出汁にたとえるのは畏れ多いことではあるが、まあ、そういうことだ。
皇室のあり方全体を憲法が規定する必要はなくて、政治と関係する部分だけを規定すればいいと、私も思っている。皇室の方が法律よりも前からあったわけで、後からできたものが前からあったものを規定するのは、よほど前からあったものが不便であったり危険であったりする場合に限られる。現憲法が天皇条項でもって皇室のあり方をかなりうるさく縛っているのは、制定当時には天皇は「きわめて危険な存在」だと認識されていたからだ。占領軍もそう思っていたし、丸山眞男を旗頭にする左翼系学者もそう思っていた。
しかしねえ、危険だったのは、天皇でもなく皇室でもなく、一方では中国やアメリカやロシアというような覇権主義の外国であり、一方ではそのときそのときの情勢に場当たり的に反応することしかできない日本の政治家ですよ。「天皇は政治利用されるから、法で縛って動けなくするか、さもなくば廃止してしまえ」というのは、「包丁は凶器になるから、刃を鈍くして切れなくするか、さもなくば捨ててしまえ」というのと同じくらいの暴論だ。もっとも、このごろの学校は子どもにナイフを持たせないのだそうで、この比喩が暴論に聞こえないかもしれないが。ちなみに、中学生のころから、私のカバンには、じゅうぶん凶器に使える登山ナイフがいつでも入っていた。だって、武士たるものが刀を持たないで外出することなんてできるわけがないでしょ。いまも刃物は好きですよ。カバンの中には入れていないけれど。そういえば、中学校でも高等学校でも、持ち物検査なんていう野暮ったいものはなかったように思う。
話を元に戻して、私は天皇を日本の祭司長であり、したがって最高の権威だと思っている。世俗の最高権威である内閣総理大臣、両院議長、最高裁判所長官、それに統合幕僚長は、それより権威の高い存在から認証されなくてはならない。だから、天皇はそれらを認証するというはたらきを、世俗の側に向かって持つ。あるいは、憲法は世俗国家の最高権威である法律だ。だから、それより権威の高い存在である天皇によって発布されなければならない。そのように、世俗社会は、いくらかのことを天皇にお願いしてしていただかなくてはならなくて、それを憲法に定めておけばいいわけだ。つまり、憲法は、天皇あるいは皇室のあり方を決めるのではなくて、世俗国家が天皇をどのように使用できるかを決める。そうして決められた国事行為以外の天皇のおふるまいは、法の定めの外側にあって、慣習に任されている。西部氏の言うのはそういうことであろうし、私もそれに全面的に賛成だ。
民主党政権の正体がだんだん見えてきたけれど、あれは、日本国憲法がとうとう肉体をもって動き出した物たちだ。「物」と書いたけれど、「物の怪」の「物」だ。大むかし、器物が年を経ると魂が宿って物の怪になると信じられていた。まさにそういう存在だな。法律は、国家の行動のすべて、精神活動のすべてを決めることはできないんですよ。その外側にあるもの、伝統や慣習、があって、それは世俗の法の及ばない神聖な領域なんです。それが理解できない「物」たちが、とうとう日本を掌握してしまった。