野田俊作の補正項
             


物の怪の時代(2)

2010年02月26日(金)


本日の読書
 疲れたので、スーパー銭湯に行ってから出勤することにした。サウナにテレビがあって、浅田真央さんのフィギュアスケートをやっていた。裸のおじさんたちが息を止めて視ている。途中のジャンプで素人にもわかるミスがあって、みんなでいっせいにため息をつく。演技が終わると、ある人は「難しいもんやねえ」と言い、ある人は「いやあ、ようやったよ」と言う。真央ちゃんも、まさか全裸のおじさんたちに応援されていたとは思うまい。どのおじさんにとっても、いちばん下の娘かいちばん上の孫の年ごろだから、鼻の下は伸びないでかわりに目尻が下がっていた。

 ま、それはそれとして、昨日の話の続きをする。昨日は「慣習法」論者である西部邁氏が、純粋法学のケルゼンは「頭が半分おかしい」と言いつつ、それと関連して小沢一郎氏の天皇観を批判した話をした。しかし、小沢一郎氏や民主党が信じているのは、ケルゼン法学ではなくて日本国憲法だ。日本国憲法の問題点は「自然法」だということを以前に何度か批判した。自然法というのは、「理性で考えればこうなる」ということを根拠にした法の考え方だ。これにたいして慣習法は、「理屈はともあれ、これまでこうしてきた」ということを根拠にした法の考え方だ。だから、自然法と慣習法は、理性を信じるか信じないかという点で、激しく対立する。もっとも、慣習法論者だって理性を信じないわけではなくて、ただ理性ですべてが押し切れるとは思わない、というだけのことだ。100パーセント信じるか、80パーセントか90パーセントしか信じないか、というくらいの違いだ。

 小沢氏や民主党の言い草は、自然法にもとづいた日本国憲法に演繹主義的なケルゼン法学を接ぎ木したもので、理性を100パーセント信じて、まったく「数学的」に法律や社会を考えようというやりかただ。こういう考え方が日本で歴史的にいつ出てきたのかは、実ははっきりしている。大東亜戦争に負けた後、丸山眞男が「超国家主義の論理と真理」という論文を書いたときだ。時は1946(昭和21)年3月、敗戦から7ヶ月後のことだ。

 ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当らないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したという驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。各々の寡頭勢力が、被規定的意識しか持たぬ個人よりなっていると同時に、その勢力自体が、究極的権力となりえずして究極的実体への依存の下に、しかも各々それへの近接を主張しつつ併存するという事態(中略)がそうした主体的責任意識の成立を困難ならしめたことは否定出来ない。(丸山眞男「超国家主義の論理と真理」『現代政治の思想と行動』未来社,p.24)

 前半は数日前に引いた。後半の「寡頭勢力が」以下がちょっとわかりにくいが、1949(昭和24)年の別の論文の中で、東京裁判の記録をもとにして、戦時中の政治家たちや将軍たちの「矮小さ」を、口を極めて罵った後で、次のように書いているのを読むと、何を言いたいかがよりよくわかる。

 ほぼ以上のごときが日本ファシズム支配の厖大なる「無責任の体系」の素描である。いま一度ふりかえってそのなかに踊った政治的人間像を抽出してみるならば、そこにはほぼ三つの基本的類型が見出される。一は「神輿」(みこし)であり二は「役人」であり三は「無法者」(或は「浪人」)である。神輿は「権威」を、役人は「権力」を、浪人は「暴力」をそれぞれ代表する。(中略)「神輿」はしばしば単なるロボットであり、「無為にして化する」。「神輿」を直接「擁」して実権をふるうのは文武の役人であり、彼らは「神輿」から下降する正統性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこか尻尾をつかまれていて引きまわされる。(「軍国支配者の精神形態」『現代思想の思想と行動』未来社,p.129)

 先の論文の「究極的実体」と後の論文の「神輿」とは同じもので、天皇を意味している。「寡頭勢力」とは後の論文の「役人」のことで、「文武の役人」と書いてあるから、政府・官僚だけでなく軍人をも含んでいる。「無法者」あるいは「浪人」は、先の論文には相当物が出てこないが、民間の右翼のことだ。つまり、国民を、1)天皇、2)支配層(政府・官僚・軍人)、3)民間右翼、4)民衆、の4層に分けて、すべての責任は指導部、すなわち政府・官僚・軍人にあったということを言おうとしている。

 では、指導部にどういう問題があったかというと、「主体的責任意識」がなかったことが一番いけなかったと丸山は言う。ナチは「主体的責任意識」があったので、まだ許せるんだそうだ。つまり、理屈であれこれ考えてから、結論として「戦争して世界征服してやる!」と自分で決めて戦争を始めたから、まだ「いい子」の部分もある。けれども日本は、めまぐるしく移り変わる国際情勢の中で、「あら、あら、あら、あら、どうなってるの?」と目を回しながら、仲間内の「空気」を読んでみたり「和」を貴んでみたりしているうちに、気がつくと戦争するしかない状態まで追いつめられていたから、とんでもない「だめな子」だというわけだ。つまり、ナチは理性的だったからまだ許せるけれど、日本は非理性的だったからまったく許せないということだ。丸山だって、ナチが「ごろつき」であり、日本の指導部が「紳士」であったことは認める。

 ナチ最高幹部の多くは大した学歴もなく、権力を掌握するまでは殆ど地位という程の地位を占めていなかった。ところが市ヶ谷法廷にならんだ被告はいずれも最高学府や陸軍大学校を出た「秀才」であり、多くは卒業後ごく順調な出世街道を経て、日本帝国の最高地位を占めた顕官である。それだけではない。ナチ指導者はモルヒネ中毒者(ゲーリング)や男色愛好者(ヒムラー)や酒乱者(ライ)など、凡そノーマルな社会意識から排除される「異常者」の集まりであり、いわば本来の無法者(Outlaws)であった。わが被告たちのなかにも大川や白鳥のように本物の精神病者もおり、松岡のように限界線に位置するものも見受けられるが、全体としてみれば、いかにその政治的判断や行動が不可解かつ非常識であっても、彼らを本来の精神異常者とは考え難い。(「軍国支配者の精神形態」『現代思想の思想と行動』未来社,p.94)

 しかもなお、ナチは理性的に戦争や虐殺を決意したから「いい子」で、日本人は成り行きで戦争してしまったので「だめな子」だと言う。このものすごい理性信仰が、戦後の日本の思想界を決定的に方向づけたと思う。すくなくとも、丸山のようにものを書いておれば、公職追放されることもなく、検閲で出版停止になるわけでもなく、読者からももてはやされることを、多くの日和見学者たちは学びとっただろう。

 丸山は、とても賢くて、あの時代にもアメリカを誉めない。理性的という点ではアメリカだってじゅうぶん理性的だった(=ずる賢かった)のだが、それについてはコメントしないで、「日本の指導部はナチにさえ劣る」という理屈だけで押し通す。アメリカを誉めるとバカに見えるからね。やがて、日本国憲法ができると、護憲派に回る。日本国憲法はアメリカが作ったが、きわめて理性的だからだ。やがて朝鮮戦争が起って、アメリカは日本の再武装を望むようになる。それを日本国憲法を盾にして断り続けるという作戦を、吉田茂が選択した。丸山眞男は、その点では吉田茂と「同じ穴のムジナ」なんだけれど、全面講和論(共産圏の国とも講和条約を結べ)という、理性的かつ非現実的な路線でもって吉田と対立した。ほんとうに世渡りのうまい男だ。その世渡りのうまさを、日和見学者たちはしっかり勉強して、そうして今になった。そういう人たちが顧問になって民主党政権が誕生したわけだ。だから、きわめて数学的なマニフェストを書くわけだ。

 ところが、面白いことに、その民主党政権の実態は、丸山が批判した、戦前戦中の日本の指導部とそっくりなのだ。その話はまた明日以後に書くだろう。