野田俊作の補正項
             


敦賀(2):空と仮設

2010年12月24日(金)


 昨夜は9時にセッションが終わって、10時には寝てしまった。夜中に雷が鳴って目がさめたが、またすぐに寝てしまい、朝の7時半まで寝ていた。瞑想ワークショップの時は、いつもこんな風だ。今夜も早く寝るだろう。疲れているというわけでもないのだが、とにかくやたら眠れる。

 あれこれ瞑想をする合間に、人に悪口を言われるゲームをした。他人が自分をどう評価するかでもって、自分の本質は変わらない。私は「正味これだけ」の私であって、それより多くも少なくもない。そういうことを《空》という。それにもかかわらず、人が自分をどう評価するかに影響されてしまう。言葉は、ある力を持つ。そのことを《仮設》(けせつ)という。

 仮設はマインドの仕事だ。それはそれで大切なことだと思う。しかし、本来は空であって、その瞬間の「正味これだけ」の私がいるだけだ。次の瞬間には、その「正味これだけ」の私は変化しているだろう。しかし、いまはこの「正味これだけ」の私しかいない。しかして、その「正味これだけ」の私は、世界の流れの中にあって、世界の仕事の一部をしている。神道の用語を使うなら、「ことよさし」の中にあって、神々の「むすび」のお手伝いをしている。それはちょうど、人体の細胞のひとつひとつが、人体全体にとって必要な仕事をしているように、人間だけでなくすべての衆生は、宇宙全体にとって必要な仕事をしている。これはきわめて尊いことだ。そのことに気がつくのがハートの仕事だ。

 近代心理学は、自己受容ということを、「私はOKだ」と自分で言うことだと考える。しかし、それはマインドのレベルのことであり、仮設であるにすぎない。ほんとうは、「あなたはOKだ」と、神仏が言ってくださるのをハートで受け取るのでなければならない。ハートはいつも受動態なのだ。だから、他者にOKを出すというのも、むしろ「神仏に嘉されている他者に、私がOKを出さない」ということの思い上がりに気がつくところから話を始めなければ、マインド・トリップに陥ってしまう。私は私、他者は他者で、すべて神仏に愛される存在なのだ。

yah pratityasamutpadah sunyatam tam pracaksmahe,
sa prajnaptirupadaya pratipatsaiva madhyama.

あるものが縁生であれば、そのものは空性であるとわれわれは見なす。
これは仮設による行であり、これがすなわち中である。

  (『中論』第24章第18偈)

 朝から雨が降っていたが、途中から雪になった。積もりそうだ。