プラサード(2)
2011年07月17日(日)
朝一番は「大阪の水」というゲームをした。これは、このグループの最初の設計図に入っていたゲームだ。いまは大阪の水道水はおいしいのだが、このグループができた時代には、ひどく不味かった。さて、そこでどうするか、というのが話の始まりだ。この世の課題には、自力で解決できるものと、自力では解決できないものとがある。A)自力で解決できないものに関しては、A−1)あきらめて受け入れるか、A−2)あきらめず不平を言うか、どちらかの態度が選択できる。B)自力で解決できるものに関しては、B−1)犠牲を払ってでも自力で解決するか、B−2)自力解決はあきらめて受け入れるか、B−3)自力解決はあきらめてしかも不平を言い続けるか、どれかが選択できる。この樹構造が頭にはいると、問題解決(あるいは問題不解決)が、とても容易になる。
アドラー心理学は「すべての問題が解決可能だ」と言っているわけでもないし、「解決できる問題はすべて解決せよ」と言っているわけでもないし、「不平を言うな」と言っているわけでもない。ただ、「すべてを自分で選択していることを知れ」と言っているだけだ。だから、自力で解決できる問題を解決しないで、しかも不平を言い続けることを意識的に選択するなら、それもアドラー心理学的な態度のうちだ。ただ、それを自分で選んでいることを認めなければ、アドラー心理学的でない。
次は、「空と仮説(けせつ)」というゲームで、これは、昨日の「本質と属性」の続きだ。自我は存在せず、ただ属性(仏教用語でいうと法)だけが存在することが昨日はわかったのだが、その属性は、実は定まった性質があるものではない。呼び名によって作用効果が変わってくる。これ以上書くとノウハウの深い部分に触れてしまうので、これくらいにしておくけれど、「本質と属性」が上座仏教の「無我」のアイデア、「空と仮説」が大乗仏教の「空」のアイデアの現代版で、このゲームによってライフスタイルの「黒い」部分が「白く」なっていく。これらはもともとの設計図にはなかったゲームで、瞑想のグループの中で使っていたのを、こちらへもってきた。

午後からはちょっと息抜きで、「神のお告げ」というゲームをした。預言者役を決めて、この人に、現実に困っていることについてお伺いを立てると、むちゃくちゃな答えをくれる。それがどういう意味か読み解くうちに、問題が解決していく。このごろ「アドラー・カード」だの「パセージ・カード」だのといって、アドラー心理学関係の名言を印刷したカードを使うセッションが流行っているみたいなのだが、原理的には私の「神のお告げ」と同じことで、抽象図形に自分の心を投影しているロールシャッハ・テストのようなものだと思っている。むしろ図形が抽象的であればあるほど、水平思考が起こりやすくて、いい答が出ると思う。ただし、そのためには、「お告げの中に必ず答えがある」というフレームワークがないとダメだが。
そのあと、「Only-if」というゲームをした。これはまともに人生目標を探し出すための方法で、かなり難しいが、たとえいまうまくいかなくても、やり方だけ憶えて帰ってもらえれば、時間をかければわかると思う。このグループでは、答えそのものを出すことは目的にしておらず、問題を解く公式を学んで帰ってもらいたいのだ。人生目標が見つかったかどうかの確認に、夕方のセッションでは、「よい思い出」のセッションをした。子ども時代の思い出のうち、よい思い出には、人生目標が達成したときの有様が描かれていると、イヴォンヌ・シューラーが言った。だから、午後のセッションで見つかった人生目標の候補者が、本物であるかどうかを確かめる。普通は、よい思い出から人生目標を見つけるのだが、今回は人生目標の見当を先につけておいて、よい思い出をその証拠物件に使った。これもおもしろいんじゃないかな。
