野田俊作の補正項
             


全知の幻想(11)

2015年12月18日(金)


本日の読書
 恒例の草津旅行で、ついでに来週の合宿ワークショップのための食料の買い出しをした。4泊5日なので、すこし多めに用意したが、足りるかな?

 マックス・ウェーバーは、

 実践的立場を「学問的に」主張しようとすることは原理上無意味である。なぜなら世界の諸々の価値秩序は相互に解決不能の闘争をなしているからである。

と言っている。「実践的立場」というのは、「こうするのがいい」とか「そうするのは悪い」とかいうことだ。そういうことについて、「学問的に」、すなわち理性の力だけで、決着をつけることはできないと彼は言う。続けて彼は、次のように書いている。

 神々の上位にあって、この闘争を支配するものは、「学問」であるはずはない。その支配者は運命である。学問が理解しうることは、各秩序にとって、ないし各秩序において神にあたるものは何かということのみである。ここまでで教室において大学教授が説きうることは完全に終りである。もっとももとよりこれに伴う重大な根本問題がこれで終わるものではない。それについて発言するのは大学の講壇以外の諸勢力である。「悪しき者に抵抗するな」とか「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」とかいう山上の垂訓の倫理を「学問的に論駁」しようとする程僭越な者がいようか。もっとも世界内的にみれば、この戒律は卑屈の倫理を説くものである。人は、この戒律の説く宗教的価値と、「悪しき者に抵抗せよ。さもなくば汝自身がその暴行の共犯者となる」と説く男子たる価値との間で選択を迫られる。各人にとっては、その究極的態度決定によって、一方は神、他方は悪魔となる。各人は彼にとって何れが神で何れが悪魔かを決せねばならぬ。このことは人生のあらゆる秩序にあてはまることである。(マックス・ウェーバー『職業としての学問』,長尾龍一『争う神々』信山社,pp.2-3 より引用)

 現代のわれわれが抱えている問題のひとつは、理性の知(≒科学)が「普遍的」な知であり、しかも神の意図につながるものであるという迷信に、多くの人が凝り固まっていることにある。そうして、個々の問題を理性の知でもって価値判断しようとするわけだが、マックス・ウェーバーが指摘しているように、理性の知である科学が価値の領域に手を出すのは、越権行為であって、理性の知の本来の定義域を超えたことをしようとしている。

 中世には、理性は現世的なこと(=科学的な真理)は知りうるが、超越的なこと(=宗教的な真理)は知りえないことになっていたし、それはいまでもそうなのだと、マックス・ウェーバーは言っている。およそ価値の問題は超越的な問題であり、理性が解答を出すことはできない問題なのだ。

 たとえば、またもや話題になっている「夫婦別姓」について考えると、夫婦同姓がいいのか、あるいは夫婦別姓がいいのかは、「いいのか悪いのか」というくらいだから、価値判断の問題であって、したがって超越的であり、理性による判断によって決着をつけることはできない種類のものだ。敢えて言うなら、「夫婦同姓教」の信者になるか「夫婦別姓教」の信者になるかという種類の問題なのだ。どちらの宗教の信者になるかは、合理的に説明できることではない。さまざまの理由で人はどちらかを選ぶわけだが、その「さまざまの理由」を敢えて言葉で言うなら、ウェーバーが言うように、「運命」としか言いようがないだろう。

 多神教だと、たくさんの神々がいて、そのうちどれかを崇拝し、他は崇拝しないということで済むのだが、一神教だとそうはいかなくて、どれかの神を崇拝すると、それ以外の神はすべて悪魔であることにされてしまう。理性の知が「普遍的」であるという思い込みの具合の悪さのひとつは、それがきわめて一神教的な信仰であることだ。一神教徒は、相手が、彼らが推し量れないような理屈でもって論証をしたときに、「お前は悪魔教徒だ」と決めつける癖がある。たとえば、「夫婦同姓は日本の慣習だし、ずっとこれでやってきたんだし、廃止して夫婦別姓にするほどの不都合があるとも思えないので、夫婦同姓のままでいいんじゃないか?」と言うようなことを言うと、理性の知を狂信している革新主義一神教徒は、「お前の言うことはわけがわからん。さては悪魔教徒だな!」と叫ぶわけだ。彼らの理屈だけが唯一正しい理屈で、それ以外の理屈はみんな邪教なのだが、中でも理性を根拠にしないで伝統だの文化だの宗教だのを根拠にした論証は、理性的な反論が不可能なので、悪魔教徒と断定されて、話を聴いてもらえなくなる。

 このごろそういうことばかり目にし耳にする。原子力発電所問題もそうだし、沖縄の基地問題もそうだし、安全保障問題もそうだし、同性愛者などの処遇問題もそうだ。まず、それらは価値の問題であるから超越的な問題であり、いわば宗教対立であって、理性でもって決着なんかつけられないのだということを認めるべきだ。たとえば、「原子力発電所推進教」もあるし、「原子力発電所廃止教」もあって、どちらも宗教以上のものではない。人間ができるのは、どちらの宗教を選び取るかの決断であり、しかもその決断は理性によっておこなえる種類のものではない。ウェーバーはこれについて、「学問が理解しうることは、各秩序にとって、ないし各秩序において神にあたるものは何かということのみである。ここまでで教室において大学教授が説きうることは完全に終りである」と言っている。そうであるとすると、決断は超越的におこなわれる。たとえば反原発派の集会に誘ってくれた女性が美人だったとかいうたぐいのことだ。

 むかし、大学に入ったとき、通学路を歩いていたら、素敵なお姉さんが、「合唱に興味ある?」と尋ねてくれたので、ふらふらと後をついていって、混声合唱団に入った。それまでは、別のクラブのことを考えていたのだが、理屈もなんにもなしに合唱団員になることにした。まあ、人生なんてそんなものだ。だから、自分とは違う決断をした人を非難すべきではない。ボクシング部に入ろうが、国家転覆研究会に入ろうが、彼らは、悪魔教徒ではなくて、別の神を奉じる宗教の信者であるだけだ。