野田俊作の補正項 |
本日の読書 |
---|
ひとときを電車の中でまどろみて人を許せる気持ちになりぬ
上句は「街へ行く電車の中でひとねむり」だったが、なんだかあまりにも素人っぽいので、三句を「まどろみて」に変え、次いで初句を「ひとときを」に変えて納得した。下句は「人を許せる心になるなり」だったが、これもなんだかねと思って、「人を許せる心になりぬ」を経て「人を許せる気持ちになりぬ」で落ち着いた。近代生活―それは何ものかを半植民地状態におくことによつてのみ、わが国人に可能な生活である。そしてさういふ生活へのあこがれが勢力をなし流行をなす限り、その情態に甘んじる者と甘んじない者の間の争ひは今後もつゞくであらう。又くりかへされるであらう。これが不幸な状態であることは、この争ひが暴力以外に決定するものがないと見られ易いところに原因している。(中略)所謂近代の生活以上に幸福な正しい生活が、なほあるといふことを、米作地帯の人口は、己の生活の道によつて、疲れきつた頭脳をふるつて考へるべき時である。工業生産に従ふ労務者の思想と、農の生産生活者との間に、思想、道義観、世界観の異なるのは当然である、(中略)平和と幸福の生活的基礎が、資本組織にあるが、工業生産にあるか、牧畜生産の中にあるか、アジア的米作生活の中にあるかを、これを原理として考へねばならぬ。贅沢と文化といふものが、缶詰と自動車の都市的食品文化の外にないのは、といふことを考へねばならない。近代は精神と倫理を失ったのである。(保田與重郎『日本に祈る』新学社,pp.126-127)
預言者のこういう忠告を聴く人はほとんどいないのだけれど、これに耳を傾けないと、人類は破滅に向かって進むしかなくなってしまう。私のゲマインシャフト論も、まさにこういう場所で考えられている。