野田俊作の補正項
             


保守と革新(11)

2016年04月25日(月)


本日の読書
 今日はお医者さんの日で、数は多かったが「濃い」人がおられなかったので助かった。

 今日の短歌。

 ひとときを電車の中でまどろみて人を許せる気持ちになりぬ

 上句は「街へ行く電車の中でひとねむり」だったが、なんだかあまりにも素人っぽいので、三句を「まどろみて」に変え、次いで初句を「ひとときを」に変えて納得した。下句は「人を許せる心になるなり」だったが、これもなんだかねと思って、「人を許せる心になりぬ」を経て「人を許せる気持ちになりぬ」で落ち着いた。

 これまでに、《共同体感覚》を《おおやけ心》と翻訳することがあった。《おおやけ》とゲマインシャフト(と皇室)の関係がはっきりしたので、この翻訳でいいことが確認された。これにたいしてゲゼルシャフトは《わたくし心》かというと、もちろんそういうことではなくて、「信義にもとづく公正な契約関係」によってなりたつ人間集団を言うので、それはそれなりに道徳的なものだ。もっとも、ゲゼルシャフトの価値基準とゲマインシャフトの価値基準は違うので、併存することがときどき難しくなる。

 日米貿易摩擦なんて、だいたいこれと関係して起こっている。アメリカはゲゼルシャフト社会だから、「フェアな」取り引きを求める。日本の伝統はゲマインシャフト共同体だから、「つながり」だの「よしみ」だの「いきさつ」だの「おもいやり」だの「義理」だのといった理性的でないものを基準にして取り引きを考える。日本人から見ると、アメリカ人のやり方は、まるでボクシングかなにかのように野蛮だ。いくらフェアでも、文明的じゃない感じがする。しかし、アメリカ人から見ると、日本人のやり方は、欺瞞や裏取引に満ちた封建時代の遺物に見える。私はこれでも近代人だから、ゲゼルシャフトの良さも理解できるし、ある場合にそういうつき合い方をすることが必要であることも理解できる。しかし、それだけを正しいと思い込んで、ゲマインシャフト的な曖昧な人間関係を排除しようとするのは、キリスト教的独善性だと思う。

 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの対立は、ある程度、農業社会と工業社会の対立でもある。

 近代生活―それは何ものかを半植民地状態におくことによつてのみ、わが国人に可能な生活である。そしてさういふ生活へのあこがれが勢力をなし流行をなす限り、その情態に甘んじる者と甘んじない者の間の争ひは今後もつゞくであらう。又くりかへされるであらう。これが不幸な状態であることは、この争ひが暴力以外に決定するものがないと見られ易いところに原因している。(中略)所謂近代の生活以上に幸福な正しい生活が、なほあるといふことを、米作地帯の人口は、己の生活の道によつて、疲れきつた頭脳をふるつて考へるべき時である。工業生産に従ふ労務者の思想と、農の生産生活者との間に、思想、道義観、世界観の異なるのは当然である、(中略)平和と幸福の生活的基礎が、資本組織にあるが、工業生産にあるか、牧畜生産の中にあるか、アジア的米作生活の中にあるかを、これを原理として考へねばならぬ。贅沢と文化といふものが、缶詰と自動車の都市的食品文化の外にないのは、といふことを考へねばならない。近代は精神と倫理を失ったのである。(保田與重郎『日本に祈る』新学社,pp.126-127)

 預言者のこういう忠告を聴く人はほとんどいないのだけれど、これに耳を傾けないと、人類は破滅に向かって進むしかなくなってしまう。私のゲマインシャフト論も、まさにこういう場所で考えられている。