野田俊作の補正項
             


不動明王灌頂(2)

2016年11月15日(火)


 
本日の読書
 『アドラー心理学トーキング・セミナー』も正・続ともに復刻されることになって、校正に取りかかった。本格的には来週以後になるようだが、基本的な文字使いなどについて出版社と打ち合わせをした。刊行されるのは来年に入ってかららしい。

 中世的な密教の世界にどっぷりはまりこんで暮らしているのだが、それはどうしてかというと、こんなに効果的な心理療法は、西洋には存在しないからだ。アドラー心理学は、西洋の心理療法の中では、きわだって効果的だと信じている。けれども、明らかに限界もある。

 アドラー心理学のやり方はこうだ。相手の行動に対して陰性感情(劣等感)を感じたとき、ある対処行動を想定してみて、その仮想的目標を考えてみる。A)もしそれが協力的なものであれば、どのような対処行動をとればそれを相手に伝えられるかを考える。いわゆる「言葉がけ」の工夫をすればそれでいい。B)もしそれが競合的なものであれば、いくつか方法はあるが、私は思考を手がかりに私的感覚を考えてみる方法を使っている。私的感覚のレベルまで行くと、協力的な目標の手がかりが見つけやすい。B1)そうして協力的な目標が見つかれば、それを相手に伝えるための「言葉がけ」の工夫をすればいい。B2)しかし私的感覚から協力的な目標が出て来ないときがある。そういう場合に、アドラー心理学はお手上げになる。

 B1の場合、すなわち、私的感覚から相手も賛成するような協力的な目標が見つけ出すことができるのは、自分と相手とが共通の私的感覚をもっている場合だ。普通の言い方をすると、思想的な共通点がある場合だ。そういう場合には、両者の関係は基本的には友好的なものであるはずだ。だから、アドラー心理学は、相談的人間関係ということを強調する。カウンセリングや心理療法が可能であるためには、まず自分と相手とのあいだに相互尊敬・相互信頼の友好的な関係が存在しないといけない。そうしておいてから、目標を一致させる。そのことで、共通の私的感覚が作りやすくなる。

 B2の場合、すなわち、私的感覚から相手も賛成するような協力的な目標が見つけ出せないのは、あることがらについて、自分の私的感覚と相手の私的感覚がどうしても矛盾して、同時に両方が成立する余地のない場合だ。たとえ話をひとつする。アメリカのある有名なアドレリアンの娘さんが、中国人の青年と結婚することになった。アドレリアンである両親の悲しみようはすごいもので、父親は私に向かって、「マサダの戦い以来、わが一族で、異教徒と結婚したものはおらんのじゃ」と嘆くので、「マサダの戦いっていつのことですか?」と尋ねると、「紀元73年のことじゃよ」と言う。つまり、ディアスポラ以後、ユダヤ教徒としか結婚しなかったということだ。「反対したのですか?」と尋ねると、「反対しても無駄じゃ。いまのご時世じゃから、結婚は両性の合意のみにもとづいて成り立ってしまうのじゃよ」と言った。「相手の青年は悪い人なんですか?」と尋ねると、「そういうことは問題じゃないのじゃ。どんなにいい男であっても、異教徒ではなにもならない」と言う。この話をしたのは、娘さんが結婚して2年後で、その時点でもまだ彼は腹のなかにもやもやとした陰性感情をため込んだままでいた。ね、この種の問題は、アドラー心理学の解決能力を超えているんですよ。

 あることがらについて、自分の私的感覚と相手の私的感覚が矛盾して、同時に両方が成立する余地のない場合には、両者の関係は敵対的になる。思想的に相容れない場合だ(上の例だと、婿がユダヤ人かどうかについて、親と子の間に妥協の余地がない)。こういう場合に、アドラー心理学はお手上げになる。それでも、なんらかの共通部分を見つけ出して妥協することはできるが(上の場合だと結婚を認める)、それでも陰性感情を作りだす私的感覚(ユダヤ人と結婚すべきだ)は残るので、敵対性は残っており、それからもやもやと陰性感情が起こり続ける。別にもやもやが残っても、時間が経てば消えていくだろうし、それにこちらが協力的なメッセージを出し続けるなら、相手がよほどの悪人でないかぎり、そのうち相手からも協力的なメッセージが返ってくるだろうから、「実践的」には、問題は解決するかもしれない。つまり、「異教徒ではあるが、いい男だ」と思うようになるかもしれない。それはそうなのだが、私が辛抱できないのは、「原理的」にこのもやもやに対処する方法を、アドラー心理学は持っていないことだ。上の父親は、死ぬまで心の奥底のどこかにもやもやをもったままでいるだろう。

 仏教は、このもやもやに対処する方法をたくさんもっている。顕教では、空性と菩提心でこれに対処する。つまり、自他の分別は妄想であることを知り(空性)、仏の慈悲は一切衆生に及んでいることを信じ(勝義菩提心)、一切衆生を愛することが仏の御心にかなう生き方であると思って実践する(世俗菩提心)ように勧める。私は業が深すぎて、これでもまだ不十分なので、密教に頼ることにした。密教は、顕教の知識をドラマチックなやり方で実感させてくれる。ちょうど、アドラー心理学が心理劇を使うように、さまざまの劇的な瞑想法を使って、空性と菩提心を実感させるように工夫されている。

 そのひとつが「成就法 sadhana」というやり方で、菩薩さまに変身をする。ただイメージを持つだけでなくて、心の底から自分は菩薩さまだと瞑想する。たとえば不動明王になるなら、実際に自分は不動明王だと強く信じて、そうして世界を見てみる。そうすると、いつもの凡夫である自分が見ている世界とは、まったく違った世界が見える。もっとも、実際に菩薩さまになったわけではないので、成就法が終わると、もとの凡夫に戻る。即身成仏はするけれど、すぐに醒めるわけだ。ちょうど、俳優が芝居のなかで英雄になるが、芝居が終わるともとのおっさんに戻るようなものだ。

 菩薩さまに変身している間は、腹の中のもやもやというような凡夫のケチな煩悩は、生じるわけがない。なぜ煩悩が生じないかというと、「本尊慢」というものがあるからだ。本尊慢を、私なりに説明する(ということは間違っているかもしれない)。菩薩は人間とはまったく格が違っていて、人間ごときの敵意に対してびくともするものではない。武道の高段者がヤクザのチンピラがすごんでいるのを見ているようなものだ。怒りや憎しみは生じなくて、ただ憐れみの心があるだけだ。しかも、相手の怖れとかおびえとかが見えるので、なんとか安心させてあげなくてはと思う。凡夫の私はとてもそんなことは思えないのだけれど、菩薩は人間をはるかに超えた慈悲心の持ち主なので、相手がどんな風にふるまおうと、ビクともするものではない。そうして、心のそこから協力的になり、心の底から協力的な言葉が出てくる。もやもやなどは、はじめから起こらないし、起こっても菩薩さまに変身すれば消えてしまう。

 ダライ・ラマ法王は、密教を学ぶものは空性と菩提心を学ぶように、繰り返し繰り返し強調される。それは、密教は魔法であり、空性と菩提心について深い理解がないと、間違った使い方をしてしまうからだ。魔法は自分の利益のために使ってはいけないので、空性をよく理解して自他の分別を離れ、菩提心をよく理解して、相手ないし一切衆生の利益のために献身する決心をしてから使わなければならない。そうしないと、自分をも他人をも苦しめる結果になるだろう。