野田俊作の補正項
             


雪が止んだら翻訳も終わった

2017年02月10日(金)


 『白ターラー菩薩の成就法』の翻訳は、すべて終わった。この日曜日にチベット語の先生に見ていただいて、最終決定版を作る。

 日本アドラー心理学会がドラマ『嫌われる勇気』に関してフジテレビに送った抗議文が一般公開された。学会ホームページの「理事会からのお知らせ」の部分からリンクが張ってある。会員向けには経過説明の文書が非公開だが掲載されている。

 今回の事件を見ていて、「教える者の責任」について考えた。たとえば私は、チベット語の経典を翻訳しているわけで、公開するものだけで今回のを含めると4つになる。公開しないけれど自分自身のために訳して使っているものを合わせると10ほどにもなるだろうか。毎日お勤めをしているし、できるだけ仏教徒として暮らすようにしている。だからといって、チベット仏教の先生ができるわけではない。チベット仏教は、各宗派ともに、教える資格についてきわめて厳格な取り決めがある。つまり、出家して、一定の課程を履修して、資格をもらったものでないと、人に教えてはいけない。だいたい15年から20年くらいかかるみたいだ。今回来ていただくドルズィン・リンポチェは、もちろん教える資格を持っておられるので、われわれの方も安心して習える。

 ところが、アドラー心理学は、世界中どこでも、教えるための資格を決めていない。決めているのは、治療者のための資格で、日本だと、育児グループのリーダーができる「家族コンサルタント」と、カウンセリングができる「カウンセラー」と、心理療法ができる「心理療法士」との3つの資格があるのだが、これらは、「アドラー心理学を人に教えていい」という資格ではない。もっとも、人に教えて悪いわけでもない。

 医者もそうだな。私は「医師」という資格を持っているが、これは「医療行為をしてもいい」という資格で、「医学を人に教えていい」という資格ではない。ところが、若いときには看護学校などで精神医学の講師をしていたことがある。だから、人に教えて悪いわけでもないようだ。つまり、西洋科学技術の領域では、「ある技術を使っていい」という資格はあるけれど、「その技術を人に教えていい」という資格がないことが多い。

 医学の世界では、このごろ「指導医」という資格ができた。たとえば精神医学の領域だと「精神科指導医」という資格がある。これは「精神医学について人に教えていい」という資格だ。私は「精神科専門医」の資格は持っているが、「精神科指導医」の資格を持っていないので、たぶん精神医学を人に教えてはいけないのだと思っている。実際、私の知識なんて、まるで時代遅れだし、人に教える気は毛頭ないのだが。

 日本アドラー心理学会では「指導者」という役割を決めているのだけれど、これは「資格認定に関係する講座の講師をしていい」という資格であって、それ以外の講座については誰がやってもかまわないことになっている。それではやはり具合が悪いから、「アドラー心理学を人に教えていい」という資格を新設すべきなのだろうか。しかし、本を書きたい人や講演をしたい人などは、そんな資格は無視して人に教えるだろう。

 用心しなければならないのは、大学の先生と、翻訳家だということが、経験からわかってきた。大学の先生は、たしかにある領域では「人に教えていい」ことになっているのだろうけれど、何でも教えていいわけではない。たとえば国文学の教授が外科医学の講義をしたりしたらおかしいでしょう。ご自分の専門領域のことだけに限って教えられるのがいいと思う。また、翻訳家のことを専門家だと思い込むのは、明治時代についた日本人の癖だと思う。私はチベット語の経典の翻訳をしているけれど、そこに書かれていることを体得しているわけではないので、とうてい人に教えることなどできないと思っている。アドラー心理学も同じことで、どんなにたくさん翻訳しても、日常生活で実践していなければ、人に教えることなどできない。

 あ、もう一種類、人に教えたがる人がいることを忘れていた。それは「セミナー屋」さんたちだ。この人たちは、アドラー心理学の普及が目的ではなくて、金儲けが目的なのだから、論外だ。だからといって、「あなた方には人に教える資格がない」と言っても、商売はやめないだろう。

 というわけで、結局は受講者の側に「人を見る目」を持ってもらうしか方法がない気がしている。チベット仏教では「先生は慎重に選べ」と教えている。アドラー心理学でも同じことで、「先生を見る目」を養わないと、ひどい目に遭う。チベット学者の石濱裕美子先生は書いておられる。

 チベット僧は「仏教を売って暮らしてはいけない」と強く弟子を戒める。これはたとえばお経を読んだその代価でお金をもらうことなどを指す。ではどうして暮らすのか。「仏の教えによって心を磨き、その結果人々が『この人を世話したい』と思って差し出した布施で暮らしなさい」というのである。つまり、修業も勉強もしないで仏様がはじめた哲学をただ右から左に流している凡俗の坊さんを戒めているのである。

 どうも、「修業も勉強もしないでアドラーがはじめた心理学をただ右から左に流している」人が多いように思われる。いや、それだけだったらまだ許せるのだけれど、変な色をつけている人もいる。くれぐれもいい先生についてくださいね。