野田俊作の補正項
             


なぜアドラーか

2017年04月21日(金)


 心理療法の最初の師匠であった高石昇先生が折衷派であったことは昨日書いた。だから、弟子たちはさまざまの新しい心理療法技法を学んだのだが、私だけは古風なアドラー心理学を選んだ。高石先生が不思議がって、「なぜ今さらアドラーなんだ?」と尋ねられた。「私にとってわかりやすいからです」程度のことをお答えしたと思うが、あまり納得していただけなかったように思う。別に反対なさったわけではないのだけれど、せっかく留学するのなら、もっと最新流行のものを学んでくればいいのにとは思っておられたと思う。

 なぜ私がアドラー心理学を選んだかについて、いまだったらもうちょっとマシな答えができる。もっとも魅力的なのは、理論や技法が《神経症的策動 neurotic maneuver》に対する《対抗策動 counter-maneuver》に徹底していることだ。これには、かなり込み入った仕組みがある。アドラー心理学の心理療法は「病気を治す」ことを目的にしておらず、「健康な暮らし方を身につける」ということを目的にしている。しかるに、典型的な《神経症的策動》として「この症状さえなければ、私は幸福に生きられるのに」という考え方がある。これにたいして、アドラー心理学は「症状があってもなくても、それとは関係なく健康に生きる方法は学べます」という線を譲らない。

 たとえば不登校児の親に、「こうして私とあなたが話をしていても、子どもさんが学校へ行かないと決めているなら、行きません」と言う。「でも、なんとか学校へやる方法はないんでしょうか」と親は言うかもしれない。治療者は、「家では子どもさんと仲良くつきあえていますか?」と言う。「いえ、あまり私たちに近づきたがりません」と親は言うかもしれない。「子どもさんと、どうすれば仲良くなれるかについてなら相談できます。けれども、その結果、子どもさんが学校へ行くかどうかはわかりません。それでもよければ相談を始めますが」と治療者は言う。親がそれを引き受ければ、子どもを勇気づける方法について話し合い始める。これは、「他人を変える」という親の《神経症的策動》を、「子どもとよい関係を築く」という《対抗策動》でもって封じているのだ。

 たとえば電車恐怖症の患者に、「魔法ではありませんから、お話しすることで恐怖心を無くすことはできないと思います。けれども、症状があっても健康に暮らす方法についてなら、相談することができるかもしれません」と言う。「症状があったら、健康には暮らせません」と患者が言うと、治療者は、「では、心理学的な治療はできませんね。お薬を処方するだけにしましょう」と言う。そうすると、多くの患者は、「それは困ります。心理学的な治療をしてください」と言うだろう。治療者は、「心理学的な治療をしても、症状はとれないかもしれませんよ」と念を押す。患者は、「じゃあ、なにが起こるんですか?」と言う。「仕事・交友・愛の3つの領域に分けて、症状があってどんなことにお困りですか?」と尋ねる。たとえば患者が。「家族がイヤがっています」と言うとすれば、「じゃあ、家族のためになにをしてあげられますか?」と言うかもしれないし、「友だちがわかってくれません」と言うとすれば、「症状のこと以外に、どんな話題がありますか?」と言うかもしれないし、「仕事に行けません」と言うなら、「職場の人間関係はどんな風ですか?」と尋ねるかもしれない。そうして、対人関係の問題としてカウンセリングを始める。アドラーが、「すべての問題は人間関係の問題である」と言ったのは、理論的なことを言っているのではなくて、技法的なことを言っているのであって、「人間関係しか話題にしませんよ」という意味だ。そのことが巧妙な《対抗策動》になっている。

 統合失調症患者に対しても同じことで、「幻覚が私を苦しめます」と言う人の幻覚を取り去ろうとは思わず、たとえば「どう言うのですか?」と尋ねる。「『呪ってやる』と言います」ともし患者が言ったとすれば、「呪われるような悪いことをしたんですか?」と尋ねる。「いいえ、なにもした覚えはありません」、と患者が言うなら、「そうですよね、あなたは正直一途に生きています。幻覚さんはそれを知らないんでしょうか?」と尋ねる。このあたりで患者は困り始める。それで、たとえば「さあ、どうなんでしょう」と言う。そこで治療者は、「『正直に生きていて、素敵だね』って言ってくれませんかって、幻覚さんにお願いしたら?」と言う。患者はかなり困って、「はあ」くらいのことを言う。治療者は、「この次、『呪ってやる』と言われたら、『正直に生きているねって言ってください』とお願いしてみてください」などと言う。これで幻覚が《神経症的策動》としての機能を失う。そうしてから、社会との折り合いについて話し始める。

 「病気を治す」のではなく「健康な暮らし方を身につける」という治療目標に、患者が賛同するまで相談を始めない。つまり、患者が提案した目標(たとえば「症状を緩和する」)を拒否してしまう。しかも、「健康な暮らし」というのは、「他者と協力的に生きること」を意味するので、患者は被害者ではおれなくなる。典型的な《神経症的策動》として、「悪いあの人、かわいそうな私」というのがあるが、治療者は、「悪いあの人たちは、これからもずっと悪い人たちだと思いませんか? あの人たちがいい人になるのを待っていたのでは、永久にあなたは健康に暮らせません。あの人たちがどうであっても、健康に暮らす工夫をしませんか?」と言う。患者がそれに合意すれば、ある場合には相手に対してより肯定的なメッセージを出す練習をするかもしれないし、ある場合には相手に期待するのをやめて距離を開ける練習をするかもしれない。いずれにせよ、健康に暮らすために患者自身ができることを相談していく。

 もちろん、患者自身と周囲の環境のポジティブな側面に注目するようにというような「小技」も使うけれど、これらを上のような《対抗策動》についての意識なしに使ったって、本物の神経症者や精神病者相手では、上滑りして患者に受け入れてもらえない。それ以前に《対抗策動》でもって、患者の病的な《神経症的策動》をしっかり封じておく必要がある。高石ゼミで、ジェイ・ヘイリーの戦略的心理療法と、グレゴリー・ベイトソンのコミュニケーション分析を学んでいたので、アドラー心理学を学び始めたとき、すぐに、治療の基本構造に《対抗策動》が巧妙に組み込まれていることに気がついた。だから私にとってアドラー心理学の基本は、「勇気づけ」でも「ライフスタイル分析」でもなくて、《神経症的策動》を裏切り続けることによって健康に生きることができるようになるための《対抗策動》のシステムなのだ。これを、頼藤和寛くんは、キェルケゴールが「真理に欺き入れる」と言ったのをもじって「健康に欺き入れる」と表現していた。レイモンド・コーシーニは、もうちょっと上品に「合気道テクニック」と表現している。

 この話はもうすこし続ける。それはそれとして、昨日、余呉湖を散策してきた。ソメイヨシノはもう散っていたが、山桜がきれいに咲いていた。人はほとんどおらず、静かな時間であった。日本人が行く極楽浄土には、きっと湖があったり渓流があったり桜が咲いていたり小さな村があったりするのだろう。極楽浄土の風景を作りだすのは心であるから、日本人には日本の風景、チベット人にはチベットの風景、アメリカ人にはアメリカの風景が見えるに違いないと思う。いずれにせよ、この湖の真ん中に真っ白い蓮の花が咲いて、その上に巨大な阿弥陀仏が座られるわけだ。おんあみでわふりー。