野田俊作の補正項
             


なぜアドラーか(3)

2017年04月23日(日)


本日の読書
 桑名に公開カウンセリングに行ってきた。午前中は5歳の男の子とお母さん、午後は小学校2年生の女の子とお母さんのカウンセリングだった。いやあ、子どものカウンセリングは緊張しますね。でもまあ、なんとか無事に終わった。

 いわゆる「5つの基本前提」がアドラー心理学の本質ではないということのひとつの例として、アルバート・エリスの『論理情動療法 Rational Emotive Therapy』やアーロン・ベックの『認知行動療法 Cognitive Behavior Therapy』のことを考えてみる。これらはアドラー心理学とよく似た基本前提にもとづいていて、個人の主体性を認め、目的論的で全体論的で対人関係論的(≒社会統合論的)で認知論的(≒仮想論的)だ。しかし、《対抗策動》のデザインがアドラー心理学とは違う。たとえば患者が「外出するのが不安です」というと、「それは不合理な信念にもとづいているのかもしれません。たとえば、『絶対に安全でなければならない』とか」と言う。アドラー心理学だと、「それは競合的であることと関係があるかもしれません。たとえば、『他者ほど上手にふるまえない』とか」というようなことを言うだろう。「《不合理な信念 irrational belief》を持っている」というのは、すくなくともアメリカ人にとっては、あまり楽しいことではないので、「不安です」と言いにくくなる。同様に、「人づきあいがうまくいきません」と言おうが「人づきあいで忙しすぎて疲れます」と言おうが、「夜、眠れません」と言おうが「寝過ぎて困ります」と言おうが、「便秘します」と言おうが「下痢します」と言おうが、その他なんと言おうが、「不合理な信念にもとづいて行動しているのでしょうね」と言われてしまう。これが、極端に簡略化して言っているのだが、『論理情動療法』や『認知行動療法』が使う《対抗策動》であり、すべての問題について《不合理な信念》を見つけ出して、それを《合理的な信念》でもって置き換える訓練をすることを《治療戦略》にしている。

 私はなにしろチベット仏教に凝って、生身のターラー菩薩とお会いしたいものだと毎日成就法をやっている人だから、とうてい《合理的な信念》の持ち主ではない。しかも健康に暮らしている。「合理的であれば健康であり、健康であるなら合理的であるはずだ」というのは、アメリカ人の迷信であり、彼らの拝金主義や物質主義や享楽主義の基礎哲学になっている。彼らが巻き起こし続けている戦争も、他国に対する傲慢な態度も、自分たちの暮らし方こそ最高だと思い込む近視眼も、すべてアメリカ式合理主義の論理的結末だ。むしろ、私などは、アメリカ式合理主義を撲滅することが、世界平和と人類の幸福への近道ではないかと思うほどだ。つまり、《合理的な信念》は、結果として「健康な暮らし」をもたらさない。もし心理療法が、「健康な暮らし」を目標にするのであれば、《合理的な信念》を訓練することを《治療戦略》の中核に据えるのはパラドクスだ。アドラー心理学はプラグマティックに考えるので、「実際にやってみてダメなものは、どんなに理屈が通っていてもダメ」だと考える。アメリカ式合理主義は、プラグマティックに考えて、採用できない。

 『論理情動療法』も『認知行動療法』も、いわゆる「5つの基本前提」にきわめて近い基礎理論を持っている。しかもアドラー心理学とは《治療戦略》が違うので、現場での動き方が違う。つまり、アドラー心理学を他の心理療法理論とくっきりと差異化するのは、だから、いわゆる「5つの基本前提」ではなくて、「そのやり方は競合的ではないですか」というのを《対抗策動》にして、すべての問題について「他者と競合的になっているのではないか」と反省し、「他者と協力的に生きる」訓練をすることを《治療戦略》の中心に据えることだ。協力的であるためには、かならずしも合理的である必要も、論理的である必要も、理性的である必要もない。「いまこの場面でこのようにふるまうとすれば、その結果、どんなことが起こるだろうか。自分も幸福になり、相手も幸福になるだろうか」と考えることができればそれでよい。それができれば、みんなが幸福に暮らせる健康な社会を築くために、自分にできることをすることができる。ごくシンプルなことだ。

 そう思うので、今日も5歳のクライエントに、「あなたはお友だちを喜ばせたいと思いますか、それとも困らせたいと思いますか?」と尋ねたりしていた。こう尋ねるから、私のカウンセリングはアドラー心理学なのだ。

 会場の前に「鋳造報国」と書いた碑があった。桑名は鋳物の町なのだそうだ。私の場合は「アドラー心理学報国」だな。