野田俊作の補正項
             


現実的であること(4)

2017年07月05日(水)


本日の読書
 今日も一日チベット語と格闘していた。えらいもので、だんだんわかるようになってくるね。

 日本政府よりはもうすこし現実的なアメリカ政府は、昨日の北朝鮮のミサイルを大陸間弾道弾だと認識することにしたんだそうだ。ということは、準備が整えば軍事攻撃をするという意味に理解するのがいいだろう。

 いまは《現実的》であることの話をしている。昨日の引用文の中に「神経症的な狂ったものの見方でもって現実を歪曲して値引きし die neurotische Perspektive und die tensenzioese, bis zur Verruecktheit gehende Entwertung der Wirklichkeit」という一節があった。日本国民の現在はそういう段階に至っていると思う。

 「神経症的なものの見方 die neurotische Perspektive」というのは、現代アドラー心理学の言い方だと(アドラー自身の言い方とは違っているかもしれない)「共通感覚と違う私的感覚にもとづくものの見方」のことだ。しかし、もうすこしニュアンスがある。日本国民について考えてみよう。

 最初に「物質文明だけでなく精神文明でも劣っていた」という《劣等感》があった。いまから考えると、これはかなりの程度まで誤認なのだが、昭和20年代の人々は強くそう感じていた。それを《過補償》して、「人権・平和・民主主義こそ正しいのだ」と狂信することにした。それがだんだん高じてきて、ある時期に「病膏肓に入って」、神経症が発症した。それはどういうことかというと、誰かが「あなたは間違っている」と指摘すると劣等感が刺激されるので、怒り出すなり、泣き出すなり、パニック発作を起こすなり、リストカットをするなり、暴力をふるうなり、ともあれ情緒反応でもって応えるようになったということだ。「人権」「平和」「民主主義」という仮想的目標は、もはや冷静に討論する命題ではなくなって、感情的に叫び続けるスローガンに落ちぶれてしまった。彼らの主張を冷静に論破したりすると、現代アドラー心理学で言うところの(アドラーは言わなかった)《復讐》の段階に入り込む。つまり、自分の正当性を主張するのでもなく、相手の間違いを指摘するのでもなく、ただ相手を感情的に傷つけることだけを目的に行動する。こうなると立派に病気だ。

 私の学生時代、つまり1970年代にも、一部にはこういう人たちがいたが、大多数はそんな風ではなかった。しかし、じわじわと神経症的な人が増えてきて、最近はもっと状態が悪くなって、「あなたは間違っている」と言われないために、予防的に、うんと強そうに見せたり、あるいはうんと弱そうに見せたりして、相手が批判する気をなくすようにする人たちが出現しているように思う。アドラーはこれを「自己保身の傾向 Sicherungstendenz」と呼んでいるし、ウィルヘルム・ライヒは「性格の鎧 character armor」と呼んでいるし、ハリー・スタック・サリヴァンは「安全操作 security operation」と呼んでいる。日常生活全般を神経症的過補償で塗り込めるわけだ。やたら尊大に自分の考えの正当性を主張するかと思うと、被害者的に自分の弱さを強調して相手が攻撃できないようにする。

 誰を見てそう思っているかというと、まずは民進党の議員たちだな。社会党が健在だった頃は、神経症的ではあったが、もうちょっとマシだった。ということは、1990年代の中ごろにこの段階に入っていたということかな。現代アドラー心理学で言うところの(アドラーは言わない)《無能力を誇示する》段階だ。

 民進党の人々は、「差別」「戦争」「独裁」は絶対的に間違っているし、一方では「人権」「平和」「民主主義」は絶対に正しいという価値観に極端に固執して、その中間を一切認めない。自分と少しでも意見が違う人がいると、「差別だ」「軍国主義だ」「独裁だ」と攻め立てる。しかし、価値判断というものは、意見であって事実ではない。事実としての現実は多様であって、そんなに簡単に白だの黒だの決めつけることはできない。それを白だの黒だの決めつけることを、アドラーは「偏向した tendenzioese」とか「狂った Verruecktheit」とかいう言葉で形容している。Verruecktheit という言葉は、「悪い方向に動くこと」というのが原意で、そこから「正気を失うこと」というような意味になる。「差別」だの「軍国主義」だの「独裁」だのは、もはや言葉の意味を失ってしまって、ただの罵り言葉に堕し、「安倍は差別主義者だ」だの「安倍は軍国主義者だ」だの「安倍は独裁者だ」だの言っていても、その意味は「安倍は嫌いだ。安倍の言うことを聞く気はない」以上のことではない。いいですよ、嫌っても。でも、嫌いなら「嫌いだ」と言えばいいので、そんないかめしい、いかにも意味のありそうな言葉を使うものではありません。

 アドラーはさらに「現実を値引きする die Entwertung der Wirklichkeit」と言っている。先日、以下のような体験を書いた。

 「安倍政権は憲法を改正して戦争できるようにしようと思っていますが、どう思われますか?」と聞く人があったので、「この次に戦争するときは勝たなければなりません。負けてはいけません」と答えたら、「でも、その前に戦争にならないように努力すべきではないですか」と言う。「それでも戦争になることはあります。そのときには勝たなければなりません」と言った。

 質問者がやっているのが、「現実を値引きする」ということだ。問題を解決するためには、自分の願望はいったんカッコに入れておいて、実際に世界はどのようであるかを冷静に観察するところからはじめなければならない。対処行動が有効であるためには、現状認識が正確であることと、解決目標が実現可能であることと、手段が実行可能である必要がある。いまやある人々は願望に溺れて、現実をすっかり見失ってしまっている。つまり幻覚・妄想の世界で生きているわけだ。左の手紙もそのたぐいだね。

 それはそれとして、今夜の夕食。タマネギをいただいたので、それを丸ままスープにする方法を考えた。皮をむいて、上を切り底を掃除して、ラップでくるんで電子レンジで温める。その後、固形ブイヨンの入った水で煮て、煮立ったときに豚ヒレを切って入れて茹でた。豚ヒレが煮えたら取り出して、液を一部別の容器に移す。タマネギのスープの方にはニンニクとローリエを少し入れて、すこし煮て仕上がり。

 豚ヒレは、スープの一部にオレンジ・マーマレード(安いのでよい)を加え、ローズマリーを入れて少し煮て、豚ヒレを入れて仕上げ、豚ヒレを出してから、スープを濾して片栗粉を加えてとろみをつけ、肉の上からかける。右上のはコールスロー。今日はパン食だった。