野田俊作の補正項
             


現実的であること(5)

2017年07月06日(木)


本日の読書
 税金の計算などをしていて、それですっかり疲れてしまった。年金事務所から呼び出しが来ていて、近く行かなければならない。ちゃんと従業員がいて働いているかどうかの調査みたいだ。いまや完全な同族会社になってしまったので、調査をしても無意味だと思うんですがね。お役人の相手をしなければならないのは気が重いな。

 北朝鮮のミサイルの軌道について計算してみた。講演などで、「中学校を出ると、自分の人生のために二次方程式を解くことなんかないですよね」とよく言うのだが、人にはそう言っておきながら、私はときどき自分の人生のために二次方程式を解くことがある。7月4日のミサイルは、最高高度 2,500 キロ、到達距離 900 キロだったということだ。ということは、

 速度 = 初速 − 重力加速度*時間

 高さ = 初速*時間 − (重力加速度/2)*(時間の二乗)

という式について、高さ 2,500 キロのとき速度がゼロになるという条件で解けばいい。中学校2年生の数学についていけておれば解けるはずだし、高校で物理を履修した人はイヤになるほど解かされた式だ。

 計算してみると、初速 10 キロ程度で打ち上げたと考えると、実際に飛んだ軌道に合う。同じ初速で打ち上げ角度を 45 度にすると、もっとも遠くまで届くはずなので、その場合も計算してみた。

 左のグラフが実際に飛んだ軌道で、右のグラフが 45 度で打ち上げたときの軌道だ。なるほど 45 度で打ち上げると、到達距離が 5,000 キロ以上になって、長距離弾道弾の仲間入りができている。この計算は、大砲で撃ち出したときのように最初にすべての力がかかっていると考えているし、空気の抵抗をまったく考えていないので、実測値とは違っていると思うが、それなりに見当はつく。

 なぜこんな話をしているかというと、《現実的》という言葉は、ヨーロッパの哲学では《数学的》というのとほぼ同じ意味で使われてきたからだ。それは一方では、プラトンのイデア論からはじまってヘーゲルの観念論に至る「理性的(≒数学的)なものだけが現実的である」という観念論を作りだした。そうは言うけれど理性的でない現実というものは存在して、たとえば恋に破れて非理性的に自殺するのも現実だし、新聞などにあおられて非理性的に都○ファーストとかいう政党に投票した東京都民がたくさんいたのも現実だ。私は東洋人であるから、現実的であるものはかならず数学的(≒理性的)でなければならないとは考えないが、数学的(≒理性的)に予測できることは現実的である場合が多いことは認める。つまり、上のグラフの右側は、まだ実験されていないけれど、数学的に予測できるので、現実的だと思っているわけだ。

 5千キロってすごいね。少なくとも日本全土は射程範囲内だ。2013年の話で旧聞だが、北朝鮮は「東京、大阪、横浜、名古屋、京都」を名指しで攻撃対象に挙げている。その当時のミサイルではそれらの都市まで届かなかったかもしれないが、いまや確実に届く範囲内にある。核弾頭でなくても、5百キロの通常弾頭をつけていると、半径100メートル以内は即死、半径500メートル以内は被害があるんだそうだ。これが現実だ。

 政府は私の中学生風計算よりももっとよい情報をたくさん持っているはずだ。そういう情報は積極的に公開すべきだし、新聞はトップ記事に取りあげるべきだし、雑誌は特集号を組むべきだし、テレビは討論会を放送すべきだ。もちろん、国会や地方議会はしっかりこの件について話し合うべきだ。その上で、国民は理性的にこの現実に対処すべきだ。

 アドラーは神経症の発達過程についての文章の中で、「環境に抵抗して仮想的に『自分は偉いんだ』と思い込むためにそれらを使い alle verwendet als Mittel zur fiktiven Erhoehung des Persoenlichkeitsgefuehls gegenueber der Umgebung」と書いている。「自分は偉いんだ Erhoehung des Persoenlichkeitsgefuehls」と翻訳した部分は、直訳するなら、「自分自身についての感じ Persoenlichkeitsgefuehl」を「高める Erhoehung」ということだが、「高める」というのは、「偉いぞ」と思うことでなくても、「大丈夫だ」とか「安全だ」とかいうことでもいいわけだ。アドラーがこれを「自己保身の傾向 Sicherungstendenz」と呼んだことは昨日書いた。「自分を高める」の前に「仮想的に fiktiven」と書いてあるのだが、実際に大丈夫になるような操作を何もしないで、頭の中で妄想的に「大丈夫だ」と思い込むだけであることを意味している。

 「環境に抵抗する gegenueber der Umgebung」というのは、「環境からの要請に応えない」という意味だ。北朝鮮が日本全土に届くミサイルを開発したという現実は、日本国民にある要請を突きつける。それはたとえば、どうすれば国家と国土と国民を守れるか考えなさいということだし、自衛隊の装備や動き方をどうすべきか考えなさいということだし、そのための基礎として憲法9条をどうするか考えなさいということだ。しかし多くの人は、その要請に応えると、「戦前の間違った思想に逆戻りしてしまう」と感じて、劣等感が刺激されて苦しくなってしまう。

 その苦しさを避けて「仮想的に fiktiven」大丈夫だと思うための「道具 Mittel」として「すべてを利用する alle verwendet」。それが、たとえば森友事件だの加計事件についてのニュースだし、あるいは芸能人の浮気だの死だのについてのニュースだし、将棋の天才についてのニュースだ。それらはある種の「薬物 Mittel」として働いて、それを服用している間は「世界は安全だ」「私は大丈夫だ」という幻覚妄想の中で暮らすことができる。しかし、それにもかかわらず現実を見ると、北朝鮮はミサイルを飛ばし続けるし、中国は領海侵入・領空侵入をエスカレートさせている。

 産経新聞記者の阿比留瑠比氏が FaceBook に、次のように書いておられた。

 私は、イザブログ時代も含めてマスコミ批判をしてきましたが、的外れだと思う意見やそれは違うと感じた見方には反論し、その中にいる1人としてかばいもしました。ですが今、マスコミは腐っていると断言します。証拠も事実も示さずにただ「怪しい」「疑わしい」「私は疑問に思う」程度の話を正義面して執拗に報じることは、犯罪の一形態だと確信するに至りました。いまマスコミは、意識しているかしていないかにかかわらずスクラムを組み、日本と日本国民を欺く犯罪を犯しています。2度と信用されなくなるような自殺行為です。こんなやり方が「あり」なら、報道は火のないところに煙を立てるどころか放火してもOK、疑わしいと主観的に感じれば相手を罰してもノープロブレムということになります。

 日本は完全に狂ってしまったと、私も思います。