野田俊作の補正項
             


公式の使い方を学ぶ(3)

2017年08月30日(水)


 フランク・ウォルトンに長い手紙を書いているうちに、一日が終わった。夜になってようやく書き終わり、メールに添付して送った。

 あるお嫁さんが夫の実家に行くとトラブルが絶えない。考えてみると、お嫁さんがいないときは、実家の人々は幸福に暮らしている。仮に、お嫁さん抜きで、夫と子どもたちだけで帰省しても、みんな幸福に暮らすだろう。ところが、お嫁さんが入ると、お嫁さんだけでなく、みんなが不幸になる。それでは、その不幸を作りだしている犯人は誰か。お嫁さんだ。わかりきったことだ。

 人間の不幸はほとんどこのようにして起こる。すなわち、相手の行動が私を不幸にする。そうして不幸になった私が陰性感情をともなって相手に反応するので、相手も不幸になる。こうして、2人のコミュニケーションの中に不幸のル−プが発生する。もし陰性感情を持ったままでコミュニケーションを続けるなら、不幸のループは維持される。

 その一方の当事者が私だから、私が違う反応をすれば、不幸のループから抜け出せるだろう。しかし、お嫁さんがクライエントでやってくると、実家の人々が悪いと言う。それはないでしょう。あなたがトラブルを作りだしている。どうやって作りだしているかというと、実家の価値観と違う価値観を持ち込んで、それでもって実家の人々を裁くので、実家の人々もお嫁さんを彼らの価値観でもって裁かざるを得なくなる。そうしてお互いに「私は正しく相手は間違っている」と裁きあうものだから、不幸のループが発生する。最初に火をつけるのはお嫁さんだ。

 お嫁さんがこのことを認めれば問題は解決する(かもしれない)し、認めなければ同じ問題がいつまでも続くだろう。人間が不幸から抜け出すには、まず自分の非を認めなければならない。「自分は正しくて相手が間違っている」と言いつのっているかぎり、自分の問題は解決しない。そうではなくて、「自分が間違えているのではないか、相手に貢献するために自分は何ができるか」を考えはじめたときに、自分の問題が解決する。『八句のロジョン』にいわく、

 どこでも誰といる時も 自分は劣った者であり
 他者はすぐれた者と見て 心の底から慈しまん

 ふるまうたびに自分を観 煩悩まさに萌え出でて
 自他への害となる時は むりやりにでも対治せん

 「相手に貢献しよう」と決心することは、相手を裁いて、自分は正しく相手は間違っていると証明したい煩悩への対治になる。もっとも私は「貢献」という言葉をあまり使わない。日本人は人の課題に介入するのが好きで、お節介ないし過干渉ないし支配をしていて、それを「貢献」だと思い込んでいる場合があるからだ。かわりに「協力」という言葉を使う。協力は《目標の一致》があってはじめて可能になる。つまり、相手と目標の一致を取りつけていない「貢献」は、実際には貢献ではなくて、自分の《権力の意志》の発露、つまり《自己執着》であって、《共同体感覚》ではないと思っている。これは大きな話題なので、項をあらためて考えるかもしれない。

 ともあれ、お嫁さんは、夫の実家の文化に合わせて暮らすことを決心する必要がある。「仲間に入れてもらいたければ、ルールを守れ」という意味のことをアドラーは言った。ルールを破っているのは、実家の人々ではなくて、お嫁さんだ。

 という話をしているうちに、外国人問題も、アドラー心理学は同じ公式で考えることになるのだなと気がついた。あまり大っぴらに言うと、ポリティカル・コレクトネスにひっかかって、「差別だ」とか「ヘイトスピーチだ」とか言われそうだな。しかし、お嫁さんと夫の実家をひとつのたとえ話として考えるなら、外国人問題も同じ公式で解くしかないことがわかる。なんでも、トランプ大統領は韓国系アメリカ人に対して、「日系人はアメリカの軍人になって、アメリカを守るためにドイツと戦った。韓国系人はいつまでたっても韓国の立場に固執して、アメリカの立場でものを考えない」と苦言を呈したのだそうだ。アメリカでだけじゃないですよ。

 それはそれとして、なんだか美味しいものをいただいて、喜んで食べている。上の写真は昨日の夕食で、お腹の中に明太子が入ったイワシ、下の写真は今夜の夕食で、岩牡蠣だ。