野田俊作の補正項
             


価値基準を回復しなければ(3)

2017年11月05日(日)


 福岡で教師のためのケース・カンファランスをした。人数が少なかったので『勇気づけの歌』を配って、最初から最後まで解説ができた。『勇気づけの歌』に書いてあることは、ひとつひとつ取り上げると、どうということはないことばかりなのだけれど、それらを丁寧に実践すると、すっかりアドラー心理学風に生活が変る。

 自由競争を国家運営の中心に置いて、政府は経済に介入しないとする。これを自由主義という。自由主義の政治をすると、必然的に成功者と失敗者とが出て、貧富の差が広がる。社会ダーウィニズムの人たちは、これを生物進化になぞらえて、「適者生存」だの「自然淘汰」だのと言うのだけれど、生物進化なら負けた種が絶滅したって仕方がないが、人間社会の場合は経済競争に負けた方が絶滅するのは具合が悪い。

 それで、国家が福祉政策を考えるようになる。そういう方法を修正自由主義と言ってもいいし、修正社会主義と言ってもいい。ここで社会主義というのは、自由主義とは反対の、経済を国家が統制するやり方のことだ。名前は違うけれど、修正自由主義でも修正社会主義でも、実態はそれほど変らないので、まあどちらでもいい。自由民主党には、自由競争に近い修正自由主義の人たちもいるし、国家統制に近い修正社会主義の人もいるが、これは質の差ではなくて量の差だ。

 私はいま自由競争そのものを批判しているわけだが、以前から国家統制も批判している。だから、修正自由主義ないし修正社会主義も正しい答えではないと思っている。そもそも自由競争も国家統制も間違っていると言っているのだから、その修正も間違っている。アドラーも1918年にそう思った。だから、社会民主党を脱退して、政治から身を引いて、《共同体感覚》を提案したわけだ。

 それ以来、アドレリアンは、政治とは距離をとり続けている。ではどうしようというのか。育児と教育を通じて子どもに《共同体感覚》を育てることで、政府の助けを借りなくても人々が助けあい分かちあう社会を作ろうとしている。アドラー心理学は無政府主義ではないので、政府は必要だと思うけれど、いまのように経済政策を中心にした大規模な政府は必要がなくなって、《夜警国家》になってゆくのがよいと思っている。

 そこまではほとんどのアドレリアンが合意しているのだけれど、これがうまく動くためには、宗教が必要だと、アドラーも西洋のアドレリアンも考えている。ただ、日本人だけが、「宗教なしのアドラー心理学」、もしくは「代用宗教化したアドラー心理学」を考えている。後者から言うと、アドラー心理学は宗教になれない。そもそもアドラーはそんなことを考えてシステムを作ったのではない。アドラー心理学は世俗のもので、《共同体感覚》だって理性的な結論であり、したがって本物の価値基準ではない。あくまで「仮の」価値基準なのだ。

 じゃあ、本物の価値基準はどこにあるのかというと、宗教が与えている。マックス・ウェーバーはそう言っているし、私も広い意味での宗教が必要だと思う。「広い意味での」というのは、神道や道教まで含めるからだ。つまり、アドラー心理学が普及して多くの人が《共同体感覚》をもって生活するようになっても、解決する問題と解決しない問題がある。自由競争を認めているかぎり、いくら人々に《共同体感覚》があっても、必然的に貧富の差は開く。それを政府が福祉政策でもって修正すると、《共同体感覚》のない金持ちは「たくさん税金をとられて、それを貧民にあげているんだから」と考えて、それ以上の道徳的な決断をしなくなるだろうし、《共同体感覚》のない貧乏人は「どうせ政府が養ってくれるのだから」と考えて,それ以上の道徳的な決断をしなくなるだろう。つまり、両方ともに《共同体感覚》を欠如したままで一生を暮らす。こうして不道徳な社会がいつまでも続く。その上に、宗教を失うと、不道徳な世界はますます拡大再生産される。

 つまり、政治的な解決は道徳的な退廃を招くと、アドラーは考えた。人間の心を非競合的にして、勝ち負けにこだわらないで暮らす文化を築かなければならない。競合的なやり方で経済を運営するのは間違いだが、それを政治権力が統制するのも間違いだ。子どものころから協力を学び、競合は人生に必要がないということを身につけた人が増えることが、ただ一つの解決だとアドラーは考えた。だから修正自由主義ないし修正社会主義の自由民主党が道徳教育を強調するなんて、完全な自己矛盾だ。