野田俊作の補正項
             


私たちはどこへ行くのか(2)

2017年11月16日(木)


 舞鶴での特殊講義と演習「勇気づけ」は、とてもいい感じで進んでいる。ここのグループは「雑味」がない。大都会のグループだと、あちこちの醸造元で作った酒を無秩序にブレンドしたような感じで、野田酒造の高級モルトを注入しても、他の醸造元の安酒の味にかき乱されて、悪酔いしそうな変なものになってしまう。しかるに、ここは、何人かの私の直系の師範たちが手塩にかけて教えたので、きわめて素直な味に仕上がっている。全国どこも、田舎がいいです。

 前半のキーワードは《構え attitude》で、「ことばかけ」や「はたらきかけ」の前にある心の構え方を点検する。《構え》を、《競合的構え competitive attitude》と《協力的構え co-operative attitude》に2分して、まず自分の中の《競合的構え》を意識することから始める。それを《協力的な構え》に変えないことには、いかなる「言葉がけ」も「はたらきかけ」も、非アドラー心理学的な対人操作になってしまう、ということを学ぶ。

 アドラー心理学は、「動物でしかないヒトを、真の人間に近づける」ことを目標にしている。何度も書いているが、繰り返して書くと、動物は「したい/したくない」「ほしい/ほしくない」を価値の基準として「自分のため」に行動し、人間は「すべき/すべきでない」を価値の基準として「共同体のため」に行動する。しかして、「すべき/すべきでない」は、理性では決めることができず、なんらかの超越的な規範に頼らないとわからない。超越的な規範というのは、宗教あるいは伝統だ。もっとも、むかしは宗教と伝統は融合していたので、実は同じことを言っているにすぎない。もう一度、宗教と伝統とが融合した社会を作らなければならないと、私は思っている。

 民衆の行動は、世論によって必ず支持される。世論とは民衆の意見なのだから、これは当然であろう。完璧な民主主義こそ、もっとも恥知らずな政治形態なのだ。そして恥知らずということは、とんでもないことを平然としでかすことを意味する。(中略)民主主義が機能するためには、民衆はエゴイズムを捨てねばならない。宗教の力なくして、これはまったく不可能と言える。国家は聖なるものであり、権力は神の御心に沿うべく行使されるとき、はじめて正当なものとなる。(エドムンド・バーク著,佐藤健志編訳『フランス革命の省察』PHP研究所,Kindle版,No.1222-1231)

 バークの言い方は古風だけれど、「権力は神の御心に沿うべく行使されるとき」というのは、「権力は、民衆が捏ねる屁理屈や学者が振り回す理論に従うのではなく、宗教的あるいは伝統的な超越的根拠に従って行使されるとき」という意味だ。

 私は学校で一度もこのように習ったことがない。小学校から大学まで、この反対ばかりを習った。アドラー心理学を学んで、学校で嘘ばかり教えられたことに気がついたが、『アドラー心理学を語る』は過渡期の作品で、いまみたいには保守的でない。けれども、あの時代(1990年代)としては、相当に保守的だったと思う。それからどんどん保守的になって、いまみたいになった。1990年代にいまみたいに語っても、誰も聞いてくれなかったと思う。いまは多くの人が耳を傾けてくれる。時代は確実に変わってきている。これはインターネットのおかげであることは認める。

 私は次のことをもう心配していて、保守が行き過ぎて反動になりはしないかと心配している。保守というのは、過去の延長線上に未来を築いていく思想であり、反動というのは昔に戻ろうという思想だ。天皇陛下は二度と大元帥陛下にはなられませんし、日本国は二度と海外植民地は持ちませんし、陸海空軍は二度と徴兵制にはならないでしょう。けれども、天皇陛下は国家元首になられるかもしれませんし、日本国は近隣諸国と軍事同盟を結ぶかもしれませんし、陸海空軍は敵地攻撃能力を持つでしょう。そのあたりのことを、冷静に議論できる世の中になってゆかなければならない。

 下の写真は昼食の「海軍カレー」。航空母艦「日向」風。